リバティおおさか 大阪人権博物館
第55回 特別展「安倍晴明の虚像と実像」
〜語られた歴史・由緒と被差別民〜
関連企画 シンポジウム 2003年10月25日
”民間陰陽師と由緒と語り”
・高知県物部村「いざなぎ流」の世界から 斎藤英喜
・小法師の由緒と益井家の歴史 小林丈広
・シンポジウムの要点
>民間陰陽師とは
陰陽師…宮廷陰陽師/民間陰陽師
宮廷陰陽師>王権や貴族の占いや祈祷に従事…官人
民間陰陽師…庶民の間で祈祷や占いを行うとともに芸能をする…被差別民
民間陰陽師は近世になると公家で陰陽道を司る土御門家の支配をうける。
>それまでの雑多な信仰や祈祷法が整理される。公家とつながることと、地域社会での
位置付けがされる。一方で土御門の支配をうけない陰陽師。民間宗教者が存在。
>由緒語り
由緒…安倍晴明の伝説と民間陰陽師=権威づけと権利の主張。朝廷とのつながりを主張。
*「要旨」、除地の認可など
語り…陰陽師の芸能・祈祷の中で「語られる」もの。
かわた身分と由緒 河原巻物…八幡宮、源頼朝との由緒を語る。
小法師…朝廷の清掃
天皇とのつばがりを根拠として「士族編入」を請願>認可される。
一方、民間陰陽師が土御門家に仕えることを根拠として「士族編入」を請願
するが却下される。
・高知県物部村「いざなぎ流」の世界から
斎藤英喜
1.「いざなぎ流」の概略
高知県東部の香美郡物部村に伝わる民間信仰。「太夫」と呼ばれるいざなぎ流の宗教者たちが、村人の依頼に応じて氏神社の祭礼、家の神の祭(宅神祭)、山や川の静め祈祷、霊的な病に対する病人の祈祷など行う。
現在 病人祈祷の依頼が村の内外からひっぱりだこで儲かっているらしい。
高級車に乗る太夫もあらわれたそうな。太夫は一族ではなく、個人単位で活動している。
個人単位なので太夫の血筋でなくとも太夫に弟子入りすれば太夫になれる。
現在活動する太夫は10人もいない。(斎藤先生は物部村でいざなぎ流を調査して約15年になる。太夫の弟子に近い存在だったらしい)
いざなぎ流の成立年代は不明。中世後期(室町時代)から近世の初期(江戸時代)にかけて、
現在の「いざなぎ流」の原型が作られたと推測される。いざなぎ流の信仰・儀礼は「陰陽道」
が色濃いが、神道・巫女信仰・熊野修験道・密教など、様々な要素をとりこんだ複合的な信仰世界。(まるで総合デパートのようだ)
2.「いざなぎ流」の由緒・語り
太夫がとなえる祭文に「いざなぎ流」の由緒について書かれている。
(注:”いざなぎ”という語は日本神話におけるイザナギ、イザナミとは関係ありません)
(1)「いざなぎ流の祭文」
日本の天中姫宮(てんちゅうひめみや) (8歳)が天竺の「いざなぎ様」に弟子入りする。
占い上手の姫宮と祈祷が得意ないざなぎ様の二つの術が合流したところに「いざなぎ流」が成立。
姫宮といざなぎ様のあいだの術比べは『ホキ抄』にみられる晴明と道満の術比べの影響有り。 「晴明のミコ神」、「道満のミコ神」という神格。
(2)「山の神の祭文」
山の神のお叱りを占い、杣人たちと山の神のあいだをとりもつ「天竺星のじょもんの巫」。
じょもんの巫によって、山の神の祭祀が始まる。>祭祀の由緒・起源としての「星のじょもんの巫」 >太夫たちは「星のじょもん」と一体となって山の神祭祀を執行する。
祭祀の場で「山の神の祭文」を読誦。
(3)「すその祭文」
釈迦と提婆王(の后)との間の呪詛合戦。「天竺の唐土じょもん」が両者に依頼されて「呪い調伏」、「因縁調伏返し」を行う。じょもんの巫によて「呪詛神」は南海とろくが島の「呪詛の名所」に送り、鎮められる。
>呪詛法の由緒
釈迦VS提婆王。 提婆王が死ぬが后が応戦。通りすがった唐土じょもんを買収し、后の裏で釈迦を呪う。釈迦は病にかかった。たまたま釈迦の家の前を通りかかった唐土じょもんは釈迦に呼び止められ、釈迦の病について占いを依頼される。唐土じょもんは自分が呪いをかけたことを言わずに后が釈迦に呪いをかけて病にしたと伝える。すると釈迦は唐土じょもんを買収して、呪い返しを依頼する。呪い返しをしたら后は病になった。后がまた唐土じょもんに呪いを依頼してくる。これはまずい自体になったと唐土じょもんは呪いの力を呪詛神に祀り、南海とろくが島の呪詛の名所に送り鎮められる。という内容の祭文だ。
これで気になるのは唐土じょもんは良い人か、悪い人なのか。
いざなぎ流の太夫たちは唐土じょもんをうやまっている。祈祷するときに主祭神となっている。唐土じょもんは、呪いをかけることもできれば、とくこともできる。
呪いを管理できる人物。法者としての力に優れているので敬われている。
3.語りと儀礼の現場
いざなぎ流の「由緒」を語る祭文は、すべて太夫が執行する儀礼の場で誦まれる。
祭文を読誦することで、その祭祀・儀礼は遂行しえる。
祭文のなかの「由緒」のとおり実現される祭祀・儀礼という発想。
「取り分け」:本祭祀のまえに穢れ、災いを除去しておく儀礼。その穢れや災いの
代表が「すそ」(呪詛)
>「すその祭文」は取り分けの執行、唐土じょもんへの礼儀として祭文よ誦む。
その儀礼は「唐土じょもんの巫」の力によって完遂される。取り分けられたモノは
ミテグラにあつめられる。祭のさいごにミテグラは土の中に埋められる。
13年間の期限で封印される。(13年後に再び祭が行われる)
4、いざなぎ流の民間陰陽師の系譜
明治3年の陰陽道禁止令
「本所」としての土御門家による門人制度の廃止。従って、土御門家の「許状」に
頼っていた「陰陽師」たちは消滅。
なぜいざなぎ流は残ったか。
いざなぎ流は土御門系の「陰陽師」ではなかった。
土佐の地で「博士」と呼ばれる別の系統。「博士」は土御門の支配下ではなかった。
だから現在の太夫たちも自分たちのことを「陰陽師」とは呼ばない。
「陰陽師」という言葉すら知らない。
太夫は自分のことを「博士」(はかしょ>高知なまりの発音で)もしくは「巫(みこ)」
と呼ぶ。巫は神社でいう巫女ではない。
太夫は呪いの依頼は現在受けていない。呪いはやってはいけないと言うが、
呪いのテクニックについては興味深く語るという。「こういう呪いをかけられたとき
はこういうふうに呪いを返す」など、呪いにも色々あるらしい。そういうテクニック
を知ることで太夫はアイデンティティーを確立しているのではないか。
参考文献: 斎藤英喜『いざなぎ流 式王子』新世紀元社
斎藤英喜・武田比呂男 編『<安倍晴明>の文化学』新世紀元社
『別冊・歴史読本 安倍晴明と陰陽道の秘術』新人往来社(P148〜P159)
・小法師の由緒と益井家の歴史 小林丈広
豊臣秀次失脚時に土御門家・陰陽師が京から追放される(文禄2年1593)
秀吉の死により陰陽師が帰京>この断絶と復活が重要
江戸幕府による陰陽師組織化(天和3年1683)幸徳井家・大黒家の争い。
土御門泰福による「天社神道」体系化。
祈祷・占考を中心に、芸能、呪術など排除。
「有髪・束髪で占考・日取・方角等を考え致す候者」
占考めぐる聖護院との争い。
土御門家の陰陽道支配の確立。(寛政3年1791)
都市の易者、修験者、竈払いの盲僧なども組織化。
2、宿村と五条家
社寺のキヨメ
五条家からの由緒書(明和3年1966)
朝廷権威を利用した既得権益の保護・地位上昇。
3、小法師役について
御所の掃除や樹木管理など務める公役のひとつ。「えた」の身分の職掌としては
京都固有のもの。史料上、18世紀の小法師役は、役人村の蓮台野村、天部村、
青屋(藍染)が務めた。小法師役の実態を表す資料に乏しく、近代になってから
いくつかの記録の断片にその姿が垣間見えるにすぎない。
幕府維新期を生きた地下官人「下橋敬長談話筆記」からの抜粋。
【維新前まで小法師がいた。定員8人え年二石の禄。小法師は御所に犬や猫などの
死骸があると、外へ持ち出して捨てるのが役。小法師の姓名がサッパリわからない。
毎日一人づつ御所へ来て見廻って歩いている。蓮台野に八十軒ばかりあるえたの中
から順番で参っている。その親方が益井。今は眼科医をやっているが、自身は御所へ
参ることはない。】
4、家の由緒と村の由緒
小法師役…8人(士族編入)
蓮台野村…215戸、1003人
下駄表商8戸、下駄商10戸、青物商7戸、肉商8戸、農業7戸、雪駄直し80戸、
荷持日雇50戸、雑業20戸。
「右の内、80戸は生活に差し支えなきもの 職業不景気に困り目下生活に困迫するも
の50戸、 右 困迫のもの村内有志者且は親類の者より救助を受け、今日の糊口
を相凌ぎ居り候也」(明治19年「臨時旧えたひにん調書」より)
「朝廷に往古より小法師役と称する役を務むる家八戸ある、遠く奈良の朝より維新の
際迄連綿奉仕し来りしに、明治三年戸籍編制の際、他の三代相恩の者は仕丁に至る
まで士族となりしに、小法師のみは調査洩れとなりて戸籍に編入せられし(中略)
去6月18日右の末歴を理由とし、内務大臣に士族編入の事を願い出でし処、本月12日
附にて之を聴届く旨指令あり。」(『大阪朝日新聞』明治33年7月19日付け)
シンポジウム
パネラー:斎藤英喜、小林丈広
司会:村上紀夫
>小法師という言葉
由緒や意味は不明とのこと
>由緒
一軒に伝わる由緒が村の由緒になることもある。
>部落の由緒書き
当事者側の歴史を語る必要があった。
〜いざなぎ流あれこれ〜
展覧会で展示されていたミテグラ。祭で使用されていたミテグラだったら危険。
祭文は古いもので江戸末期。祭文を文字にして残してはいけないから。文字を書く
習慣がなかったからとも説がある。実際、祭文は太夫が死ぬまぎわに燃やしたり、
埋めたりする。弟子は太夫の祭文を写して覚えたり口伝で学ぶ。またテキストに
書いてあることが祭の全てではない。重要なことは書かれていないという。
メモを取ることを禁止されたり、口止めされることもある。そんな危ない?書物を
今は亡き太夫から授かった斎藤先生はいかに…(^^;
近年、ある太夫さんがいざなぎ流について事細かく文章に記録しているという。
これを解明派の太夫と名付けてみた。わからないことがあればNHKに問い合わせする
という。その太夫にとってNHKが信頼できる情報価値基準らしい。まるで郷土史会の
ようだ。一方、祭文などを秘守するのは伝統派の太夫。両者とも個性的で興味深い。
個人プレーで活躍するいざなぎ流ならではのことだと思う。
物部村について語った祭文はない。
>いざなぎ流太夫への差別はあったか
村全体が太夫村と言われる時代もあった。
差別があったかどうかは不明。
>中世以降 霊を降ろして祈祷することは土御門家から禁止されていた。
しかし依頼は絶えないので断りきれない。土御門家から監視され、板ばさみ
状態の民間陰陽師がいたようだ。
>いざなぎ流での霊降ろし
昭和初期まで行われていた。
>平安時代からの宮廷陰陽道が今まで脈々と続いてきたように思われるが、
秀吉の時代に陰陽道が迫害を受け、断絶した。その後復活するが、ここが重要
ポイント。 陰陽道や安倍晴明について歴史的過程を知る必要がある。
>晴明神社の由緒
神社の由緒書には、神社境内が晴明の屋敷跡と書かれているがウソ。
屋敷は今の京都ブライトンホテルにあった。
あとがき
小法師の話に蓮台野村が出てきた。親類がその近くに住んでいて、何十年か前まで
差別問題があったそうだ。「よく部落の人と間違えられたんよ」と話ていたのを思
い出した。蓮台とは土葬する際に棺を置いておく台のこと。
古くから埋葬の地でもあった。蓮台の寺で代々墓守をしていた人とも実はつながり
がある。聞き取り調査をしたら大変勉強になると思う。しかし今のところ聞けないで
いる。いつまでも眼を背けるわけにはいきませんが
<
HOME>